校長その日その日
(10/22)合唱練習に雑感
中間テストが終わって、放課後は校長室まで校舎内や窓外から歌声が響いてきます。
来月11月に合唱祭があるからです(中学・高校とも)。
毎年のことなので、「今年はこんな歌を歌うクラスがあるんだ」「まだ”こなれて”ないな」「だいぶハーモニーが整ってきたな」などと思いながら仕事をしています。
別の話ですが、先日本校の放送演劇部が地区大会をみごと勝ち上がり、県大会出場を決めたという話がありました(→「今週の大宮開成」記事)。
私は音楽も演劇もとくに造詣が深いわけではないのですが、「表現」という意味で、作品やそれに関わる人々に対し、たとえプロでなくても私は敬意を抱いています。
歌詞、旋律、セリフや表情。
それを書いた人、演じた人の「その人にしか成し得ない表現」、また一つの演奏・演目が2回目であっても必ず同じものにならない「ライブ性?刹那性」ともいうべきものに、漠然とした魅力を感じるのです。
それを中学生、高校生といった未完成(敬意を込めて言っています)な人間が全力で打ち込んだときには、心の錆び付いた大人が心を震わされないはずがありません。
ある年齢、ある立場の、その人間にしかできない「表現」。
私自身の例で非常におこがましいのですが、しばしば学校説明会の後などに「いい話を聞きました」などとお褒めの言葉をいただくことがあります。
また以前、私の講演を偶然聞いた私のパートナーも「あんた話だけはうまいね(笑)」ということでした。
9割方はお世辞(とくに後者)だ自惚れてはならぬ、と言い聞かせつつ、自分なりに一つだけ思い当たることがあります。それは、
「自分が本当に”そうだ”と信じていることを話す」
とき、聞いていただいた方々に(多少は)何かが届いているのかも、ということです。
おそらく「内容」ではないのだと思っています。
誰かがどこかで言っているようなこと―〇〇教育、時代は○○だー果たしてお前は本当にそう思っているのか?それは聞き手に届くのか?
思っていないのなら、きちんと自分の目で見た大宮開成の教育、その魅力を「表現」しろ、でなければ届くものなど何もないぞ…と、説明会のたびに自分で自分のハードルを上げてしまうのがこの季節です。
生徒たちの表現が我々の心を震わせるのは上手さ以前にその全力さゆえだ、そんなことを考えた放課後でした。
なお私のパートナー曰く「力んだってみっともない、というか話は短く」と付け加えるのを忘れませんでした。卓見です。